奈良・平安時代
大陸と日本を繋ぐ大陸と日本を繋ぐ
対馬最古の越高遺跡(上県町)では、紀元前6、800年頃の九州と朝鮮半島の遺物が同時に出土するなど、対馬は古代より大陸と日本を繋ぐ海上交通が盛んでした。大陸に抜ける浅茅湾の入り口西漕手(美津島町)は、かつての遣隋使・遣唐使が船を乗り継いだ地。金属器・漢字・仏教・政治制度など、様々な大陸文化が対馬を起点に日本に渡ってきました。
鎌倉時代
国防の島が奮戦した元寇・佐須浦の戦い
『アンゴルモア元寇合戦記』や『ゴースト・オブ・ツシマ』などの題材としても描かれている元寇。1274年の「佐須浦の戦い」では、一千人の蒙古軍が佐須浦(厳原町小茂田)に上陸し、対馬守護代・宗助国と家臣80余騎が迎え撃つも、激戦の後に全滅。助国の亡骸は、「お首塚」「お胴塚」などバラバラに埋葬されていることからも、壮絶な戦の跡を感じることができます。
宗助国が祀られている小茂田浜神社(厳原町)では、毎年11月の第二日曜に慰霊大祭が執り行われています。武士の子孫たちが鎧に身をかためて小茂田浜に集い、宗助国とその家臣の魂を鎮める「鳴弦の儀」では、朝鮮海峡に向かって神主が鏑矢を放ちます。
2024年は元寇襲来からちょうど750年。今は穏やかな波が打ち寄せる小茂田の浜辺も、宗助国がいまわのときに見た水ぎわは、果たしてどんな色に染まっていたのでしょうか。 小茂田浜(厳原町小茂田)
戦国時代
交戦・交易を経て交流の島に
対馬最古の越高遺跡(上県町)では、紀元前6、800年頃の九州と朝鮮半島の遺物が同時に出土するなど、対馬は古代より大陸と日本を繋ぐ海上交通が盛んでした。大陸に抜ける浅茅湾の入り口西漕手(美津島町)は、かつての遣隋使・遣唐使が船を乗り継いだ地。金属器・漢字・仏教・政治制度など、様々な大陸文化が対馬を起点に日本に渡ってきました。